Masukリュゼリア。 彼女の名は、もともと美しい響きだと思っていた。音の流れも、字面も、貴族の娘としてふさわしい品を持っている。だから結婚後も、必要があればそう呼んだ。だがその呼び方は、いつもどこか書類の上の名前に近かった。夫が妻を、家名と地位の中で指し示すための呼び方。 今、夜更けの廊下で小さく呼んだその名は、初めて全く違うものに聞こえた。 リュゼリア。 それは肩書きでも役目でもない。ただ、あの細い女の体温や視線や、土に触れた指先や、食卓で静かにカップを持ち上げる所作や、何も急がなくていい朝に少し戸惑う顔や、咳のあとに息を整える横顔、そういう全部をひとつに束ねた名前だった。 そして、名を呼ぶたびに、これまでの記憶が妙にばらばらなまま浮かんでは沈んだ。 結婚式の日、白い花の匂いの中で、儀礼の一部のように彼女の名を呼んだこと。 王城から戻った夜、食堂で向かい合いながら、必要な返書の確認だけをして、「リュゼリア」と短く呼んだこと。 体調を崩し始めてから、侍女の前で「リュゼリア、座れ」と命じるように言ったこと。 どれも間違ってはいない。どれも夫として、屋敷の主として、必要な場面だったのだろう。だが今思えば、そのどれ一つとして、彼女その人へ届く呼び方ではなかった。 名前を呼んでいたのに、呼びかけてはいなかった。 そう気づいた瞬間、胸の内で何かがゆっくり捩れる。 彼女はいつも、自分の呼び方ひとつで表情をわずかに変えていたのかもしれない。王都の長い廊下で。食堂の静かな灯りの下で。夜更けの寝室で。ほんの少しだけ目を上げ、あるいは小さく笑い、またすぐ何でもない顔へ戻っていたのかもしれない。 だが、自分はその小さな変化を何一つ受け取らなかった。 今になって思い出せるのは、彼女が時折、自分の名前を呼ぶ前にほんの半拍だけ息を置いていたことくらいだ。 旦那様。 あるいは、ごく稀に、誰もいないところで低く「ヴィルレオ様」と呼んだこともあったかもしれない。その響きが耳へ残っているのに、それがどんな顔で向けられていたのか、自分はほとんど覚えていない。 覚えていないことが、たまらなく苦い。 ヴィルレオはもう一度、壁へ背を預けたまま、低く名を呼んだ。「リュゼリア」 今度はさっきより少しだけはっきりと、音の一つひとつを確かめるように。 すると、その名は不思議なほど
◇ 客室を出ると、廊下はさらに静かだった。 燭台の火は小さく、壁に落ちる影だけが長い。館そのものが深く眠っている気配がある。王都の本邸の夜とは違う。向こうでは、どれほど夜更けでも完全な沈黙はなかった。遠い場所で必ず誰かが動き、屋敷が生き物のように微かに呼吸していた。 ここでは、違う。 眠るべきものは眠り、静まるべきものは静まり、ただ風と水と火の名残だけが館の骨組みに残っている。 ヴィルレオはその静けさに導かれるように、足を進めた。 どこへ向かうのか、自分でも半ばわかっていた。 西側の回廊。 リュゼリアの寝室へ続く廊下。 その扉の前まで来て、ようやく足を止める。 内側に灯りはない。もう寝ているのだろう。熱は少し落ち着いたとはいえ、夜更けまで起こしてよいはずもない。扉を叩く理由など何一つなかった。 それなのに、ここまで来てしまった。 扉一枚隔てた向こうに、彼女がいる。 息をして、眠って、時折咳き込み、アイダに水を飲まされ、また目を閉じているのだろう。そういう想像が、やけに具体的で、やけに胸を締めつけた。 ヴィルレオは扉に手をかけないまま、壁へ背を預ける。 こうしている自分を、誰かが見たら滑稽だと思うだろう。 大公爵が夜更けに客室を抜け出し、妻の寝室の前で何もできず立ち尽くしている。 だが、今は滑稽であることすらどうでもよかった。 彼女に触れたいと思う。 その手を取ってしまいたいと思う。 熱のある額に触れ、冷えた指先を包み、咳き込んだあとに乱れた呼吸が落ち着くまで背を支えていたいと思う。 そういう衝動が、もう言い逃れのできないほど確かにある。 それでも扉を開けないのは、彼女に拒まれるのが怖いからではない。もちろんそれもある。だが、もっと根本にあるのは、そこへ手を伸ばすだけの時間を、自分が彼女と積んでこなかったとわかっているからだ。 夫だから許されるというのなら、世の中はもっと簡単だっただろう。 だが彼女ははっきり言った。 いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ。 その戸惑いを生むのは、自分が彼女の苦しみ方を知らないからだと。 知らない。 本当にそうだった。 咳のあと、どれくらい待てば息が整うのか。水はすぐ差し出したほうがいいのか、それとも少し置いたほうがいいのか。熱が上がる前に指先がどんなふうに
その夜、ヴィルレオはとうとう一睡もできなかった。 東側の客室は静かだった。静かすぎた、と言ってもいい。暖炉の火は弱められ、橙色の残り火だけが炉の奥でゆっくりと明滅している。厚い絨毯は足音を飲み込み、閉じた窓の向こうでは湖からの風が時折かすかに鳴る。天井は高くも低くもなく、寝台は広く、掛布は重すぎず軽すぎず、客人が休むには申し分のない部屋だった。 なのに、まぶたを閉じるたびに胸の奥だけが冴えていく。 昼に見た彼女の細い指先。 風にずれた外套の襟。 自分が伸ばしかけて、途中で止めた手。 夜の寝台の中で、熱の残る声で言われた「あなたは、まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」という静かな言葉。 そのどれもが、目を閉じると余計にはっきりした輪郭で蘇る。 眠れないのは、考えすぎているからだと最初は思った。王都を出る直前からずっとそうだった。帳簿や社交台帳や侍女の配置や、彼女が整えていた無数の細部を見せつけられ、遅すぎる気づきに胸を抉られ、謝ろうとしても謝罪にならず、ようやく差し出そうとした未来を「今さら遅いのです」と静かに断たれた。 それだけあれば、眠れぬ理由としては十分すぎる。 だが、今夜の眠れなさは少し違っていた。 ただ苦しいのではない。 ただ後悔しているのでもない。 胸の奥に、名前のついていない熱があり、それが消えないまま静かに燃え続けている。 ヴィルレオは寝台の上で何度目かの寝返りを打ち、それから諦めたように起き上がった。掛布をはねのける。足が床へ触れると、夜の冷えが足裏から上がってきた。その冷たさが、かえって少しだけ頭を冷やした。 燭台に火を足すほどでもない。部屋の薄闇の中、ヴィルレオは窓辺まで歩き、カーテンを少しだけ開けた。 庭は黒く沈んでいた。昼に見た白と青の花壇も、今はほとんど影と見分けがつかない。ただ、月が雲の合間からわずかに顔を出すたび、湿った土のあたりだけが鈍く光る。花がそこにあることは知っている。見えなくても、そこにあると知っているものは、不思議なほど強く意識を引いた。 彼女も、そうだったのかもしれないと、ふと思う。 王都の長い屋敷の中で、食卓でも廊下でも寝室でも、彼女はずっと自分をそういうふうに見ていたのだろうか。見えなくても、届かなくても、そこにあるものとして。朝も夜も、自分の機嫌も疲れも食の進み具合も、まる
リュゼリアは少しだけ目を瞬かせた。意外だったのだろう。彼がそんなふうに、自分の無力をそのまま口にするのは珍しい。「旦那様」「医師のほうが、正しい」「ええ」「アイダのほうが、お前の呼吸を知っている」「ええ」「俺は」 そこで言葉が止まる。続きは簡単だったはずなのに、喉の奥で妙に重かった。「俺は、何もする資格がない」 リュゼリアはしばらく黙っていた。 そして、ゆっくりと首を振る。「資格がない、という言い方は少し違うわ」 その返答が意外で、ヴィルレオは思わず顔を上げる。「違う?」「ええ」 熱のあるせいか、声はかすかに掠れている。それでも響きは穏やかだった。「資格がないというより、旦那様は……まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」 その言葉は、どこか静かな慈悲を含んでいた。「苦しみ方?」「ええ。咳のあと、どれくらい待てば落ち着くのか。水はすぐのほうがいい時と、少し置いたほうがいい時があること。熱が上がる前に指先がどう冷たくなるか。そういう、小さなこと」 リュゼリアは細い息を吐く。「それは、一緒にいる時間の中でしかわからないものだから」 時間。 またその言葉だ、とヴィルレオは思う。 失った時間。 届かない謝罪。 今さら遅いのです。 そして今、彼女はまた時間のことを言う。「だから」 リュゼリアは小さく目を伏せた。「いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ」 責めるのではなく、説明するような声だった。 その説明のしかたが、かえって痛い。 彼女はもう怒ってもいない。ただ、自分と彼のあいだに何が足りないのかを、静かに言葉にしているだけなのだ。「……そうか」 ヴィルレオは低く答えた。 そうだ。 彼は彼女の苦しみ方を知らない。咳の音を聞いたことはある。熱に浮かされる顔も見た。だが、それは断片だ。断片を見て、知ったつもりでいただけだ。本当には何も知らなかった。だから、今さら手を伸ばしても、その手はいつも少し遅く、少し強すぎる。 何もできないのではない。 何をすればよいか、まだ知らないのだ。 そして知るためには、彼女が許す距離で、許す速さのまま、時間を積むしかない。 その時間さえ与えられる保証はない。 けれど、資格がないと自分を切り捨てて立ち去ることもまた、彼女の言葉を聞かずに結論を出すことになるの
◇ その日の午後、リュゼリアは少しだけ熱を上げた。 庭の時間が長すぎたわけではない。医師も「この程度なら」と首を振った。むしろ、朝からの疲れが夕方に出たのだろうという見立てだった。咳も少し強く出て、彼女は早めに寝台へ移された。 ヴィルレオは居間の隅に立ち、医師が胸の音を聞き、アイダが湯を替え、ミナが濡らした布を運ぶ様子を見ていた。 その輪の中に、自分の役割がない。 それは当然だった。医師の手のほうが正確で、アイダのほうが彼女の息遣いを知っていて、ミナのほうがこの館の温度をよく理解している。彼はただ壁際に立ち、咳の合間に細く息を吸う彼女の姿を見ることしかできない。 何かをしたいと思う。 水を渡すとか、背を支えるとか、暖炉の火を足すとか。 けれど、どれも“できること”ではあっても、“やるべきこと”ではない。すでに誰かがもっと適切にやっている。そこへ今さら自分が手を伸ばせば、彼女にも周りにも余計な気を使わせるだけだ。 手を伸ばす資格がない、とはこういうことなのだと、ヴィルレオは改めて思い知る。 資格というのは、身分や関係性のことではない。 その人の苦しみに近づいてよいだけの時間を、自分がどれだけその人と共に積んできたかの問題なのだ。 アイダはそれを持っている。 ミナも、医師も、この数日で少しずつ積んでいる。 自分はどうだ。 夫でありながら、その時間をわざわざ空白のまま残した男だ。 だから、いざ触れようとすると全部が遅く、全部が無理な動きになる。 リュゼリアが少し熱にうかされたような目で窓のほうを見ている。頬は白く、唇だけが乾いていた。アイダが匙で薬を含ませ、彼女はゆっくり飲み込む。胸が上下するたび、呼吸の細い音が聞こえる。 ヴィルレオはその音に、何もできずに耳を澄ますしかなかった。 公爵としてなら、医師を増やすことも、薬を取り寄せることも、館の者へ命じることもできる。 けれど今ここで必要とされているのは、権力でも金でもなかった。 彼女の呼吸が乱れた時、何をせずに待つべきかを知ること。 苦しさを大きく扱いすぎず、それでも見落とさないこと。 そういうものだけが、ヴィルレオには決定的に欠けていた。 ◇ 夜、熱は少し落ち着いた。 医師は「今夜は大きく上がらぬでしょう」と言い、アイダと交代の侍女へ注意を伝えて下
「今日は、少し寒いわね」 リュゼリアが花壇を見たまま言う。「ああ」「でも、昨日より香りが濃い」「土のか」「ええ。陽があるからかしら」 ヴィルレオには、その差まではわからない。ただ、彼女がそう言うのならそうなのだろうと思う。「白のほうが開いてきたわ」「見える」「青は風に弱そう」「お前みたいだな」 思わずそう口にした途端、リュゼリアが一瞬だけ彼を見た。驚いたのかもしれない。あるいは、その言葉の不器用さに困ったのかもしれない。 ヴィルレオ自身も、自分で何を言っているのかわからなかった。青い花が風に揺れているのを見て、ただ、細く頼りなく見えるのに土へ根を下ろしている姿が彼女と重なっただけだった。「そうかしら」 ややあって返ってきた声は、ごく薄い笑みを含んでいた。「わたくしは、あんなにきれいな青ではないわ」「そういう意味ではない」「では、どういう意味?」 問われると、うまく言えない。 風が吹けば揺れる。揺れるのに、ちぎれずに立っている。そんなことをどう言葉にすればいいのか。「……弱そうに見えて、根はある」 ようやくそう言うと、リュゼリアはしばらく花壇を見ていた。「ええ」 やがてぽつりと答える。「そうでないと、ここまでは来られなかったでしょうね」 その一言は、自分で自分を褒める響きではなかった。むしろ、ようやくそこまで辿りついた疲れを含んでいるように聞こえた。 ヴィルレオはその横顔を見つめる。 頬はやはり白い。風が少し強くなるたび、肩がかすかに縮む。咳もまだ消えていない。ほんの少し立って歩くだけで息が乱れる。それでも、彼女はここにいて、自分の根でようやく立っているのだ。 そこへ、今さら自分が手を伸ばしていいのか。 頭では何度も否と答えが出ている。 だが、目の前で風が彼女の外套の襟を少しずらし、白い首筋が冷気へさらされた瞬間、ヴィルレオの指先は無意識に動いた。 伸ばしかけて、止まる。 たった数寸の差だった。 その手を、リュゼリアは見た。 正確には、動こうとして止まった、その一瞬を。 彼女の薄青い瞳が、彼の指先へ落ちる。 それだけで、ヴィルレオの胸の奥がひどく冷えた。 この手は、何をするつもりだったのだ。 外套を直すのか。 首筋を冷やすなと触れるのか。 どちらにせよ、それは王都で彼が一度もしてこなかっ







